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はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

先週の金曜日はエッセイ教室だった。

       アテナの銀貨                    中村克博


 平戸松浦の二の姫が壱岐を訪れたのは去年の秋も深まるころだった。それから冬がおとずれ年が明けて春になっていた。日差しはまして海はぬるみ山の緑がもえて野は花で色づいていた。二の姫は平戸松浦の党首である父、源披(ひらく)と騎馬で薄香の浦を北に見下ろす山道にさしかかっていた。狩衣に太刀を佩いていたが烏帽子はかぶらずに髪を後ろに束ねていた。供回りの騎馬武者は弓を持つ五騎が少し離れ一列に従って、その後ろから十人ほどの足軽が二列になっていた。
「北風が冷たいな」左うしろの馬の鼻づらに声をかけた。
「せなに朝日が当たって顔が冷たくいい気持です」と娘がこたえた。
「普請がすすんだな。もう屋根が葺かれておる」
「あら、ほんとに、茅に日が照って、きれいですね」
 薄香の浦のさらに奥まった入り江に真新しい葦葺屋根が見えていた。娘夫婦の新居が入り江に面した山の中腹を開いて建てられていた。昨年の秋から平戸松浦の二の姫と戸次惟唯との婚儀のはなしが順調に進んでいた。そのあいだに惟唯は月に一度ほど平戸を訪れ、一度目のときには三日泊まって二の姫と夜を過ごしていた。三日夜の餅の儀式もすみ、その後も松浦の家中の人たちとの面識をかさねていた。
「建増しと新築の工事は手筈通りだが婿入りまでには間に合わぬ」
「それまでは父上の屋形で惟唯さまとお世話になります」
「ともに来る郎党が十人以上だが、それらは、薄香の屋形が完成してからだな」
「薄香の屋形、いい呼び名ですね」
「そうだな、これから、そちたちを薄香の屋形と呼ぼう」
屋形の上空で鳶がゆっくり弧を描いて昇っていく、浦の入口に目をやると大きな外洋船が一隻、艀に先導されて入ってきた。小舟が数艘それをよけている。
「明州、慶元府からの交易船だな」
 二の姫は遠くの南宋からの船を見ながら、
「惟唯さまのお名前は、松浦の惟唯になりますのか」
「戸次では都合がわるかろう。それに、古来、松浦党の名はひと文字だが…」
「惟唯の頭をとって惟、これ、ではこれまた都合がお悪いようで…」
「後をとって唯、ただか、これもな、婿殿とも相談せねばならぬな…」

松浦氏は、嵯峨源氏源融の子孫源久(みなもとのひさし)が延久元年(1069)に朝廷から宇野御厨(うのみくりや)荘園の支配を任され、松浦地方に下向したことに始まる。源久の長男である源直(みなもとのなおし)は源平争乱の前に、清(きよし)、囲(かこう)、披(ひらく)、連(つらの)などに領地を分けた。その清が今福の宗家松浦氏を継ぎ、他の子どもは囲が伊万里の山代、披が田平、伊万里、平戸、連が小値賀などの領地を支配するようになったと伝えられている。

普請中の屋形の様子が見えてきた。大工や左官の動きが見える。槌を打つ音がいくつも聞こえる。廃材を燃やすのだろう焚火の煙が上ってきた。薄香の屋形と呼ばれるようになるこの施設は、これまで交易のやり取りをする倉方や水夫や武士の詰所として使われていた。増改築して新たに母屋が新築されようとしていた。

そのころ壱岐では、為朝、惟唯、次郎それにマンスール琉球の部将たちがの月読神社の弓道場で弓の稽古をしていた。マンスールは傷もすっかり治って日焼した顔は引き締まり手入れされた髭が精悍な武人をおもわせた。為朝の弓の稽古には静寂さはもとめられない。いくつもの言葉が飛び交い、ときには笑い声もする。
マンスールが弓を引きしぼった惟唯に、
「男ガ女ノ家ニトツグトハ、アラビア、デハ、シンジラレマセン」
「我が国では京の貴族から地方の百姓まで婿いりはごく普通です」
 そう言って、少し息を凝らし矢を放って、
「しかし、武士の間で婿入りはめずらしい」と言った。
 マンスールは簡単な言葉なら和語でどうにか話しができるようになっていた。
マンスール殿、代わりましょう」と惟唯は射場からはなれた。
 マンスールの弓は惟唯の半分の長さもないが、いくつかの木材を貼りあわせた複合弓で軽くてしなやかな弾力があった。マンスールが射場に歩いた。左足を少し引きずっているが目立つほどではない。箙(えびら)には十本の矢が入れられていた。的場が整えられて新しい的が置かれていた。
肩越しに箙の矢を一本とるや、
「惟唯ドノハ婚礼モセズ…」と言って放った。
「ソレニ、女ノ家デ…」と言って肩に手をまわし次の矢を放った。 
「三日モ夜ヲトモニシテ…」と言って三たび放った。
喋りながら矢を射る手さばきは段々に早くなる。
「シカシ、婿入リデハ…」と右手が半回転すれば矢が飛んでいた。
「側女ハ、オケマセンネ」といって矢が飛んだ。マンスールは一呼吸ついた。
 放たれた五本の矢は正鵠を外していたが的の中に収まっていた。
 マンスールの弓術を見ていた琉球の部将が、
「そのように早く矢を射るのは白兵の混戦のときですか」とたずねた。
「歩兵ヨリモ、騎馬デノ突撃ニハ、槍ヨリ、キキメガアリマス」
「日本や琉球の弓が二の矢を放つまでに五本の矢が放たれる」
「白兵戦ノトキハ走リナガラデモ、転ンデデモウテマス」
「なんと、走りながら転んででも、とな」と問い直した。
 マンスールは射場にいる人に了解を求めた。走りながら転んで矢を射る演武を始めることをつたえた。的に向かっていた四人の武士が後にさがった。マンスールは射場の隅から為朝に丁寧な挨拶をした。そして、静かに歩きはじめ矢をつがえて放った。つぎに歩きながら後ろを振り向きクルリと一回転して元に戻りながら矢を放った。さらに歩きが駆けるように早くなって射場の板張りから矢道の地面に飛び降りざま屈むようにして矢を放った。それから草地を的に向かって二三歩小さく跳ね前方に頭から回転して立ち上がり、そのまま、もう一度前方に回転して立ち上がったが、その間に矢が二本放たれていた。五本の矢すべてが的の中にあった。
 弓道場は静かだった。声を出すものは誰もいなかった。
マンスールは少しの照れを顏に浮かべて、もとの位置にもどってきた。
「このような弓の技は初めて目にしました」と惟唯が言った。
「船戦で接舷してから斬り込む間際に使えそうですね」と次郎が言った。
「我らの半弓よりもさらに短い、矢も細い作りですね」と琉球の部将が言った。
「すばらしい」と感嘆の声がする。

為朝はこの一連の様子を床几に座って見ていたが望洋とした表情はいつもと変わらなかった。すると為朝のこうべが左にすっと動いて顔がほころんだ。それに気づいた者が為朝の視線の先を見ると丁国安の夫婦と芦辺のちかの笑顔があった。先ほどから射場の入口にたたずんで中の様子をうかがっていたようだ。
「しつれいします」と丁国安が頭を下げて為朝のそばに歩いた。
タエとチカが後に続いて入ってきた。
丁国安が為朝からマンスールに目をうつして、
マンスール殿は商人だと思っておりましたが武勇もすぐれておいでとは…」
「ちか様も半弓を巧みにされますが、マンスール様のはもっと短いようですね」
 ちかが惟唯を見て、
「船の上での戦に、短い弓を早く射れれば敵をしのげますね」
「そうですね、打ち刀を使う者の後ろに控えて一組とすれば、あるいは…」
「接舷して、斬り込む前に使えばどうでしょう」と次郎が言った。
「いや、やはり接近戦になれば弓は役に立ちますまい」と惟唯が言った。
 マンスールは弓をもって立ったまま話を聞いていた。言葉の意味は十分には理解できないが何かを感じ取ったように、
「敵ヲ目ノ前ニ見テ戦ウトキ、武術ヨリモ技ヨリモ心ガ大切、死ヌコトヲ恐レナイ心ガ大切、必殺ノ一瞬ガスベテ、後モ前モナイ、考エモナイ」と言った。
 たどたどしい言い回しだが、誰もが意味を解して言葉がなかった。惟唯はしゃべりすぎた自分に腹が立っていた。次郎は恥ずかしそうにしていた。
「卑怯未練を恥じ、他をあてにしないのが武士ですね」とたえが言った。
 ちかはマンスールを見ていた。
 丁国安が為朝を見て、
「さきほど、イスラムの船が芦辺の浦にはいりました。鬼界ヶ島で出会ったうつくしい船に大型の外洋船が三隻も同行しております。マンスール殿に会いたいと申しておるようでございます」
 為朝はにこやかに聞いて、マンスールを見た。
マンスール、なつかしかろうな。さっそく出向いてはどうだ」
「まったく、驚きました」と丁国安が言った。
「みんなも一緒に行ってみてはどうだ」と為朝が言った。 
平成二七年五月十四日