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はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

一昨日は午前中がエッセイ教室、夕方からは居合の稽古

貝原益軒について、「大和俗訓」を読みかけたが、読めない。

まず、漢字が難しくて僕には読めない。
辞書を引こうと思っても、字が小さくて虫眼鏡がいる。

エッセイ教室に提出したが、ほとんどがwebからの引用になった。
提出順に読むのだが、数行おきに読めない漢字がある。横の箱嶌さんが小声で読んでくれる。
エッセイとは、いいがたい内容だ。これは「コピペ」だと言われた。


貝原益軒について                 中村克博


 「大和俗訓」という古い文庫本を見ていた。巻末には、岩波文庫、昭和一三年九月十五日発行、定価四十銭、発行所は東京市神田区一ツ橋二丁目三番地、岩波書店とある。虫眼鏡で見たくなるほど細かい字で書かれている。
岩波書店をネットで調べてみた。
岩波茂雄(一八八一年八月二七日 〜 一九四六年四月二五日)によって一九一三年(大正二年)八月五日、東京市神田区南神保町一六番地に開いた古書店として創業とある。「岩波茂雄、どんな人なんだろう」 

ネットを岩波茂雄に移る。
日本の出版人、岩波書店創業者。長野県諏訪郡中洲村の農家に生まれる。一九〇一年、第一高等学校に入学する。藤村操が自殺した際、彼の友人であった茂雄は四十日間、山小屋に篭もり自身も死を選びつつあったが母親の下山の訴えで下界へ戻る。とある。「さぞかし、ホッとしただろう」
ネットを移動して、人騒がせな藤村 操を調べてみた。
一八八六年(明治一九年)七月二十日―一九〇三年(明治三六年)五月二十二日)の生まれ、北海道出身の旧制一高の学生。華厳滝で投身自殺した。祖父の藤村政徳は盛岡藩士であった。父の胖(ゆたか、政徳の長子)は明治維新後、北海道に渡り、事業家として成功する。操は、十二歳の札幌中学入学直後まで北海道で過ごした。その後、東京へ移り、開成中学から一年飛び級での京北中学編入を経て第一高等学校に入学した。父の藤村胖は、屯田銀行頭取である。弟の藤村朗は、建築家で三菱地所社長となる。妹の夫安倍能成は、漱石門下の哲学者。学習院院長や文部大臣を歴任した。一九〇三年(明治三十六年)五月二十二日、栃木県上都賀郡日光町の華厳滝において、傍らの木に「巌頭之感」を書き残して自殺。厭世観によるエリート学生の死は当時の社会に大きな影響を与え、後を追う者が続出した。藤村の死後四年間、同所で自殺を図った者は一八五名に上った。彼の死は、一高で彼のクラスの英語を担当していた夏目漱石は自殺直前の授業中、藤村に「君の英文学の考え方は間違っている」と叱っていた。この事件は漱石が後年、神経衰弱となった一因ともいわれる。当時の知識人の間でも藤村の死に対する評価を巡って議論が交わされ、「煩悶青年」とその自殺は社会問題となった。「ふむ、ふむ、そうなんだ…」
ネットを岩波茂雄に戻した。
なるほど、創業者は山に籠って悶々したあげく、第一高等学校を落第したらしい。さらには試験放棄のため除名中退処分となる。ところが、再起して一九〇五年東京帝国大学哲学科選科に入学。とある。一九〇六年には結婚。なかなか忙しい人だ。神田高等女学校に奉職するも退職。一九一三年(大正二年)、神田区南神保町に古本業岩波書店を開く。破格の正札販売を実施、古書店から出発し、夏目漱石の知遇を得て一九一四年には「こゝろ」を出版。これは自費出版であったが、岩波書店の処女出版と位置付けられる。『思想』(一九二一年)『科学』(一九三一年)『文化』(一九三四年)などの雑誌や、一九二七年(昭和二年)には「岩波文庫」を創刊。日中戦争について「日本はしなくてもいい戦争をしている」と日本軍に対して批判的な立場から活動を展開していた。一九四〇年には学徒及び篤学の学者、研究者を援助する目的で財団法人「風樹会」を設立。同年、津田左右吉の著作『古事記日本書紀の研究』他四点が発禁処分となった事件では発行元として、津田と共に出版法違反で起訴。一九四二年に有罪判決、上告中の一九四四年免訴となる。また美濃部達吉天皇機関説を支持する投稿を朝日新聞に行ったが同紙が不掲載とした。朝日新聞を意気地なしとののしった。翌年には雑誌『世界』が創刊され文化勲章も受ける。一九四五年三月に貴族院多額納税者議員に互選、任命される。戦後は、日本の単巻辞書としては最大級の収録数を誇る国語辞典『広辞苑』の発行で知られている。

貝原益軒について書きはじめたのだが、いつの間にかインターネットであちこちwebを飛び回っていた。webは知らないことを調べるのに便利だが、あっという間に時間が過ぎている。パソコンの画面を見つめている視点の位置も距離も固まったままだ、目にも首の骨にも悪いに決まっている。
文庫本の大和俗訓に戻ることにした。
貝原益軒はその名を篤信、字は子誠で、久しく損軒と名乗ったが晩年に改めて益軒と称した。初め通称を助三郎と呼び、二六歳の夏に髪を剃って医となった後、柔斎と称すること一四年に及んだが、三九歳の冬に再び髪を蓄ふるに至って、藩主黒田光之から久兵衛の名を賜った。益軒は寛永七年十一月十四日(西暦一六三〇年)に福岡城内に生まれた。彼の祖父宗喜が、黒田如水に仕えることになってから以後、貝原氏は代々黒田家の士籍に列して百五十石を食んだ。宗喜は年少なくして武田家に仕え信玄の侍童であったし、如水に仕えて後は主として民生と理財を掌ったというから、槍先の功名を競う一片の武辺ではなかったであろう。益軒の父寛斎は祐筆の職を奉じて忠之・光之の二代に仕えたという。益軒はかってその父を語って、
「文学は乏しかりしも、儒道を貴ひて異端邪術を嫌ひ、佛氏の説を信じることなかりき」といったと伝えられている。
益軒、十九歳のときから忠之に仕えて近侍したが、三年目の慶安三年にはその怒りに触れしりぞけられ、これから後七年にわたる長い浪人生活に入った。長崎に遊学し医を以て世に立とうと志した。二六歳になって江戸に入り、父寛斎と共に藩邸に住み、医を標榜して柔斎と称した。藩医の列に加わったが、翌年十月、光之の命によって江戸、京の名高い儒学者に交わり学究を重ねることになる。寛文五年(西暦一六六五年)三六歳以後の益軒の生涯はいかにも順調であった。知行一五〇石を宛がわれていたが、四年後の寛文八年には知行二百石となり、更に二九年を得て元禄九年(西暦一六九六年)になると三百石に累進していった。

貝原益軒が著した大和俗訓は。宝永五年(西暦一七〇八年)刊。儒教道徳をもとに、特に婦女子を対象とした実践倫理を説く。益軒十訓のひとつ、だそうだ。しかし、僕はまだ、その解説と自序までをやっと読んだところだ。内容は分かりやすく書いてあるのだが、本文に行く前に、パソコンに張り付いてwebをアチコチと回り道、脇道にと遊び過ぎてしまった。ちなみに、貝原益軒の十訓とは「家訓」「君子訓」「大和俗訓」「楽訓」「和俗童子訓」「五常訓」「家道訓」「養生訓」「文武訓」「初学訓」の十種をさすらしい。この中では養生訓が有名だが、僕はこの養生訓さえ、パラパラとめくるだけで読んだことはまだない。著作は他に、藩命により『黒田家譜』を編纂。また、藩内をくまなく歩き回り『筑前国風土記』を編纂している。書き物以外にも、藩内で朱子学の講義や、朝鮮通信使への対応をまかされ、佐賀藩との境界問題の解決に奔走するなど重責を担った。

貝原益軒の生きた時代は、江戸幕府第五代将軍、徳川綱吉(西暦一六四六〜一七〇九・在職一六八〇〜一七〇九)が学問の興隆をはかった時代。初期は堀田正俊を登用して文治政治に努めたが、正俊の死後、柳沢吉保を重用し、生類憐みの令を発して犬公方とよばれた時代だ。
人形浄瑠璃竹本義太夫義太夫節として完成し,市川団十郎坂田藤十郎らによる歌舞伎が盛行し、近松門左衛門は、浄瑠璃では世話物を,歌舞伎では時代物を主として扱った。俳諧では、松永貞徳によって形式が整えられ、西山宗因を経て、松尾芭蕉の出現となり、蕉風の俳諧が完成された時代。小説では、井原西鶴が、浮世草子を著わし、町人や武士の生活を人間味あふれる筆致で描いた。絵画では狩野探幽らの狩野派に対して土佐派が復興しており、また尾形光琳を中心とした光琳派は、花鳥風月や人物を色調豊かに表わし、菱川師宣らの浮世絵は大いに民衆に愛好された。儒学では、朱子学派に山崎闇斎、木下順庵、貝原益軒、室鳩巣,新井白石らが、古学派に山鹿素行伊藤仁斎荻生徂徠、太宰春台らが,陽明学派に熊沢蕃山、淵岡山らが現れ、古典に対する批判や新しい解釈を行い、独自な学説も発表された。国学では,僧契沖、荷田春満、下河辺長流、北村季吟賀茂真淵らがいた。
貝原益軒のことを調べようと思ってみたが、これは大変だ。僕は知らないことだらけだ。松尾芭蕉が同じ時代の人らしい。芭蕉のことが気になってきた。幸田露伴芭蕉七部集評釈をネットで注文した。前回のエッセイ教室でたまたま紹介されていたのを思いだした。これを読んでいけば、むしろ、貝原益軒のこの時代のふんいきが理解できそうな気がする。
平成二九年七月六日