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はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

昨日の土曜日、「日本海海戦107周年記念大会」

自衛艦隊の「くろべ 」艦上で黒田藩伝柳生新影流の洋上居合奉納が行われた。
1905年5月27日、日本の連合艦隊バルチック艦隊対馬沖で決戦した。

基準排水量 2,200トン                 旭日旗とマイク師範のコントラストがいい。
全長 100.5m 全幅 16.5m
最大速 20ノット 乗員143名

出航して間もなく居合の奉納演武が始まった。   居合の演武は宗家の四方払いの神事から始まる。

「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」この電文で決戦の火蓋が切られた。

13時55分、東郷平八郎大将は連合艦隊旗艦「三笠」へZ旗(「もう後がない」の意味)の掲揚を指示した。
この時連合艦隊が使用していた信号簿でZ旗
「皇国ノ興廃、コノ一戦ニ在リ。各員一層奮励努力セヨ」という文言が割り当てられていた。

先頭の「三笠」は約150度の回頭を終え東北東に定針し、バルチック艦隊の航路の斜め前方7,000mを浅い角度、約20度で圧迫を始めた。
それに対応するようにバルチック艦隊は砲撃を開始、「三笠」に攻撃を集中した。
それから五時間余り激戦が続きバルチック艦隊は戦力のほとんどを失った。
ウラジオストクに到着したのは「グローズヌイ」と、二等巡洋艦「アルマース、駆逐艦「ブラーヴイ」の3隻のみ。

19時10分に「三笠」は砲撃を中止し、後続の各艦もそれに倣い19時20分に砲戦が終了した。
この海戦に勝利した5月27日、日本はこの日を海軍記念日と定めた。
   バルチック艦隊の艦船の損害は沈没21隻(戦艦6隻)、兵員の損害は戦死4,830名、
   捕虜6,106名、捕虜にはロジェストヴェンスキーとネボガトフの両提督が含まれる。
   連合艦隊の損失は水雷艇3隻沈没、戦死117名、戦傷583名、
   大艦隊同士の艦隊決戦として前代未聞の一方的勝利となった。

奉納演武が終わったので、写真班の僕は解放されて館内を見学して回った。 

会場の見張りは、昔ながらの目視で注意深く小まめにされていた。

信号旗の掲揚が始まった。「Z」旗が艦橋の上に掲げられた。

艦橋上のデッキに船鐘が吊るしてあった。水兵さんに問うと「一度も鳴らしたことがない」そうだった。

博多湾を出てすぐに回頭して戻りはじめた。 艦橋にある舵輪は、こころもとない、ほど小さい。
日露の戦没者への慰霊の式典がはじまった。

船尾甲板に下りてくると旭日旗は半旗になっていた。

弔銃が発射された後も水兵の銃卒は式典の間、海に向かって整列していた。

接岸準備が始まり、タグボートが近づいてきた。 大きなロープが舫われた。岸壁との接地面には毛布が丁寧に巻かれた。

無事に奉納を終えた柳心会の剣士たち、お疲れさんでした。