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はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

貝原益軒を書こう 五十五 

 

 

 

貝原益軒を書こう 五十五                中村克博

 

 

  佳代は叫んで暴れて抵抗したが、すぐに力がつきた。うつろにされるがまま静かになった。涙だけが流れた。近くに太った水夫が横になって倒れていた。先に佳代から懐剣を脇腹に差し込まれた髭面のぶよっと太った悪党だった。そのほかには佳代を襲った水夫たちは誰も残っていなかった。騒ぎが只事ではなくなって、みんな逃げていなくなっていた。

 ゴツンと言う音がした。佳代にかぶさっていた水夫が叫んではなれた。立ちあがろうとしたとき、もう一撃が同じ頭を打った。少年の水夫が棍棒で殴っているのが見えた。手で受けたが、ごつんと鈍い音がした。顔じゅう血だらけになっていた。もう一度ごつんと音がして血だらけの男は仰向けに倒れた。動かなくなった血だらけの顏に少年の水夫は棍棒を大きく振りかぶった。佳代の叫ぶ声がしてそれをとどめた。少年の水夫は我にかえった。棍棒を放り投げて、佳代を抱きかかえて甲板に上がろうとした。

 階段を数人の船員が下りてきた。船長と副官が数人の兵士を従えていた。

 

 佳代の乗っているオランダ船は西に向かっていた。朝になっていた。佳代は船尾楼の小さな部屋で目が覚めた。船長室の横だった。甲板に大勢の人がいて、話し声は聞こえないが、ざわついていた。

 船長が顔を出した。帽子をとって、

「昨日の夜、大変でした。あらためて、お詫びします」

 佳代は床の敷物に座って下を向いていた。

 船長はひざまずいて、

「もうすぐ、昨日の、罪人の処罰を、公開で、おこないます」

 佳代は下を向いたまま、頭を下げてうなずいた。

「できれば、処罰に、立ち会って、見てください」と言った。

 佳代は頭を振って断った。

 船長はしばらく待ったが、それ以上は言わずに部屋を出た。

 

 船尾楼の甲板に海兵が横一列に船首に向かって並んでいた。サーベルを帯びてマスケット銃を持っていた。中央の甲板には大勢の水夫が二列になって船首から船尾に向かって並んでいた。天気はよく西風が穏やかだった。船はゆっくり南下していた。

罪人は五人だった。首謀者のぶよっと太った水夫は船尾楼の階段の横に手を付いてうずくまっていた。上半身裸で腹には白い布がぐるぐる巻かれていたが血が滴るように滲んでいた。顔は切り傷が黒く乾いて傷口を縫い合わせた糸がポツポツと出ていた。もう一人が階段の手すりに寄りかかって立っていた。手を後ろに縛られていた。残りの罪人は船首にいた。三人とも手を前に縛られて上半身裸だった。

 副官が号令をかけ海兵が踵を鳴らして直立した。船長が中央甲板の水夫に向かって短く話した。そのあと副官が罪状を読み上げた。

 

 船首付近の手を縛られた三人の水夫がまず一人、二列に長く並んだ仲間の水夫の中に押し出された。歩き始めた裸の背中にビシッ、ビシッと短いロープが打ちつけられた。ひと足ひと足、歩くたびに鋭い音がした。二列に並ぶ水夫はそれぞれ親指ほどのロープをもって手を縛られて前を通る仲間の背中を打たねばならなかった。ロープに結び目を付けているのもあった。二人目の罪人が歩き始めた。三人目も歩きだした。叩きつける音がかさなった。声を発して勢いをつける者もいた。鞭の音と声が一つのざわめきのように異様に反響した。罪人は二列の鞭を通って船尾までたどり着くと倒れ込む者もいた。背中は幾つもの鞭のあとに血が重なって流れていた。

階段の前の後ろ手に縛られた二人がそれを見ていたが、すぐに首に太いロープがかけられた。首のロープは帆桁の先端に伸びていた。この船の帆は三角形で、一本の帆柱に長い帆桁が斜めに大きな一枚の帆を引き上げていた。ぶよっと太った水夫は首のロープが引かれると横になったまま床をずるずると曳きずられ右舷の高く引き上げられた帆桁の近くまでつるし上げられた。次の罪人の首が引かれた。引かれるロープに遅れまいと歩いて船縁まで来ると海の上にぶら下がった。すぐに動きは止まって先の男の足元まで引き上げられた。鞭うたれた三人は縛めをとかれた。許されたとわかって三人ともその場にうずくまった。声をだして泣いていた。

 

 そのころ鄭成功の大型ジャンク船は南東に航海していた。目的地の厦門に向けて一直線の方角だった。西の風で船足は出やすいが平底の船は流される。後ろには僚船の小型のジャンク船が航跡の後を追っていたが徐々に西に離れていた。同じジャンク船だが大型の方は竜骨が舳先から船尾まで通って風に流されにくい。小型の方は平底で河の浅瀬でも進めるし潮が引いても着底が容易にできるが、風が真追手でなければ流される。

 根岸は後の僚船を見ていた。西の方に流れた船は朝日に照らされた大きな網代帆だけが光って見えていた。かなり距離が開いた小型のジャンク船には柳生の松下が乗っていた。鬼界ヶ島で薩摩の船に乗って大坂に引き返す予定だったがそうしなかった。 

 

 大型のジャンク船には国外追放になる罪人が五百人ほど乗っている。由比正雪の乱に加担した浪人たちでキリシタンがほとんどだった。関ヶ原の戦から大坂の陣それに島原の乱などで取り潰しになった大名家の家臣の子や孫たちだった。十七歳以上五十歳までの男子で鄭成功の軍隊で傭兵軍に編入される。もう一隻の小型のジャンク船には兵役に従事できない婦女子と老齢者が二百人ほど乗っていた。

 根岸は船尾甲板の上から中央甲板を見た。大型ジャンク船の甲板は船首と船尾が高く反り上がっている。中央甲板はまるで中華鍋の底のように低くなっている。さらに船尾の甲板は一段高い船尾楼の上にある。そこから根岸は船全体を見渡していた。

 甲板には五百人もの武士に加えてジャンク船の乗組員がいる。大勢の水夫の他に鄭成功の明の兵隊が百人はいる。そして、その明の兵隊とは別に日本人の傭兵が十人ほどいた。月代を剃っていたし、大小の日本刀を差している。根岸と同年輩が二人いて、あとはみんな若い、二十代前後だろう。海外に移住した日本人の二世だろう。三世もいるのかもしれない。屈託ない笑顔がいいが、なんとなく日本国内の武士とは感じが違うと思っていた。

 船長は五十歳過ぎの穏やかな人物で副官が二人、観天望気の航海士や操舵士、水夫長、食料や厨房の責任者、衛兵と隊長など幹部の乗組員がいた。  

 

 根岸はこの大きな船の、ごった返す人いきれの中で、一人ぼっちになった心の寂寞をあじわっていた。大坂から鬼界ヶ島までの航海では柳生の武士たちがいっしょにいた。松下がいつもそばにいた。それが今は柳生の者はみんな薩摩の関船で大坂に向かっている。いや、ただ松下だけは小型のジャンク船に乗っている。小型と言っても関船よりはるかに大きい。松下はどんな思いをしているのだろうと思った。

令和四年七月十四日