ブログを体験してみる

はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

昨日の夕方は居合の稽古だった。

宗家が杖術の組太刀をしておられた。

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コロナのためにマスクをしている。

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新影流には杖のほかに鉄扇や手槍の技もある。

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居合は一人稽古が多いが、組太刀が大切だ。斬試も大切だ。

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流れるように力もなく相手は転倒する。

両手首をからめると身動きできない。

 

この日午前中はエッセイ教室だった。原稿は五十回目になっていた。


貝原益軒を書こう 五十                中村克博

 五百石積の弁財船二隻の後に三百石積の弁財船が続いていた。三隻の船は真新しい白い綿布の帆をはらませて淀川の河口を出てから徳島に向かっていた。淡路の島が大きく行く手に広がっている。昼すぎるころ城が見えてきた。平地から山の上にまで石垣がうつくしく続いている。根岸は先頭の船に乗っていた。松下という柳生の武士も一緒だった。五百人の浪人たちは五百石船二隻に分かれて乗っている。先頭の船には男ばかり三百人ほどが乗っていた。残りの二百人は家族連れで年寄りも女も子供まで二隻目の五百石船に乗っていた。これには五人の柳生の女たちが付き添っていた。三隻目の弁財船には拵えに入った大小の刀が千振り、火縄銃二千丁と大量の鉛玉が積まれていた。これらの武器は当初三隻に分けて積む予定であったが一隻にまとめられていた。根岸は聞いていなかったが他に重量のある薦包みが五個積まれていた。それを乗せる車輪がついた頑丈な台座もあった。

 

 二隻目の船に家族連れの女子供にまじって佳代が乗っていた。枚方で根岸から置いてきぼりになったことがわかると、およねのとめるのも聞かず、ろくに話もせずに身支度もそこそこに船溜まりに走った。幸いに小さな帆船が舫いを解くようすだった。船頭に交渉し銀の小粒をわたして大坂に向かった。大坂に着くとその足で宗州の大坂店にかけ込んだ。佳代が幼いころから知っている番頭を呼んで浪人を運ぶ船に案内するようにたのんだ。船は堺の交易商が手配していたので番頭はいきさつをよく知っていたが、そのような手助けはできないと言った。その日は佳代が大坂に来たとき使っている部屋に泊まった。

翌日の明け方まだ薄暗いころ番頭の目を盗んで店の小舟を仕立てて若い船頭に有無を言わさずに沖の船に届けさせた。家族連れが乗っているという二隻目の五百石船にまぎれ込んだ。船はそのとき浪人たちを乗船させる最中で人が大勢のった小舟が混雑していた。船に上がると柳生の女に不審がられて尋問された。困って黙っていると浪人の家族が助けてくれた。女房らしい中年の女が懐から十字架を取り出した。合わせた両手にかけて拝むように柳生の女に頭を下げた。それを見た佳代はとっさに胸元に下げている自分の十字架を取り出して同じようにした。船には後から後から人が乗り込んでごった返していた。柳生の女は佳代を見つめていたがその家族の一員として尋問を止めて解放してくれたのだった。

 

 根岸は柳生の松下と並んで腰をおろして淡路の城を見ていた。

「淡路島は徳島藩、蜂須賀氏の所領だそうですが城があるのですね」

 松下が手をかざして城を見ながら、

「一国一城の定めが大阪夏の陣のあと出され、大名家は居城を残してすべてを取り壊したのですが蜂須賀家だけは徳島城の他に淡路にも洲本城がありますね」

「なぜでしょうね」

「さあ、わかりませんな」

「そのころは、商館のある平戸以外に、堺にも大坂にも南蛮船が朱印状もなしに出入りしておったそうですね」

 松下は少し考えるように、

「そのころ・・・ そうですね。豊臣家が滅んだあと厳しいキリシタン禁教令がでても数年はイスパニアポルトガルの交易船は大坂や堺には出入りしておった」

「伴天連の布教は厳重に取り締まっても交易は見逃しておったのですか」

「そうかもしれません。あ、それに、ルソンのイスパニア総督がアカプルコ(メキシコ南部の町)に向かう途中に上総の沖で遭難しましたが、翌年に秀忠公がイギリス式の外洋船を貸し与えてイスパニアの総督は太平洋を渡った。家康公は江戸の近くにイスパニアの商館を望んでおられたそうです」

 根岸は考え込むように、

「家康公は南蛮といろんな国との交易を望んでおられた。ところが家光公の代になってからはオランダだけです。それも長崎の出島に限って・・・」

「家康公は西洋人を身近に置いておかれた。三浦按針はイギリス人ですがオランダの船を操船して西回りでオランダから地球を半分以上まわって九州の豊後に流れ着いた。江戸の近くに所領まで持つ、れっきとした旗本です」

「で、それで、なぜオランダだけが出入りを許されるのですか」

「さあ、わかりませんな。ただ、イスパニアは家康公の許しを得て江戸湾の測量を始めたようです。それを三浦按針殿が咎めて中止させたようです。イスパニアは艦隊を派遣して軍隊を動員する前には上陸地点の測量をやるようです。もちろん、その前にはキリシタンの宣教師を派遣して信者を広めて現地人を味方にしておくようですが」

「しかし、我国には三百諸侯もの大名家があります。いずれも長い戦乱の世を何世代も生き抜いた侍の国です。鉄砲の数でも性能でも兵の運用でもイスパニアの叶う相手ではないのではありませんか」

「そうですね。ところが、いまは戦乱の世も終わって、余った火縄銃を密かに海外に持ち出しておりますな。は、はは」

「そうですね。千丁や数万丁持ち出しても、まだまだ無尽蔵にあるのでしょうね」

 松下は真顔にもどって、

「国内の戦乱は無くなったのはありがたいですが、戦がないと銃砲の発達は進みませんな。外国に後れを取ります。それよりも侍の戦う気概が失われるのが・・・」

 根岸が松下に問うように、

「徳川様のご治世は武断から文治の世に変わろうとしておりますが、これからは剣の道はどうなるのでしょうね。柳生家は将軍家剣術師範ですが、どのようになるのですか」

「は、は、そのようなこと私どもの考えることではありません」

 

 淡路島が右舷後方に見えていた。陽が傾いていた。風は追い風で天気がいい。佳代は船の舳先に近づいて前を走る弁財船を見ていた。傾いた夕日がまぶしくて目を細め両手をかざして見つめていた。人の動くようすは見えるが顔までは分からない。船がゆれて佳代は転びそうになった。

令和四年三月十七日