塀を取り壊している。
機械を使って造作もない。昔は鏨(たがね)とハンマーで小さくしていた。
鉄の手すりが付くのは半年後になる。うっかり下に落ちないようにしなければ・・・
昨日のエッセイ教室に提出した原稿は
貝原益軒を書こう 三八 中村克博
そのころ、根岸は佳代と公家の女人を警護しながら屋形船で鴨川を下っていた。公家の女人は強い衝撃を受けて傷ついていた心身が持ち直したので、宗州が気晴らしに半日の川下りをすすめたのだった。風は涼しく水はおだやかに流れていた。舟の中ほどにある三畳の屋形は障子が開けられ人影が二つ、根岸は舟尾に、竿を持つ舟方の横に座っている。屋形の話し声が時おり根岸に聞こえる。おおかたが佳代の声だ。着物や帯の話をしている。公家の女人は真新しい小紋を重ね着していた。年頃や背格好が似ている佳代が見つくろったようで色や柄の話をしている。
根岸はすれちがう舟や岸辺の人をぼんやり見ている。遠くの山の新緑がもこもこして緑の雲のようだ。菅笠をかぶる舟方がキセルをくわえているが火玉はとっくに燃え尽きて煙はない。屋形の二人に川面の朝日が照り返して公家の女人の顏をうつした。色白で美しい。ときたま屈託のない顔をみせる。笑いながらたがいの髪をさわったり襟元をいじったりしている。このようにたわむれる年頃の女のようすを根岸は初めて見た。
速足の舟が近づいてきた。佳代がすだれをおろした。舟が通りすぎようとしている。十人ばかり男女が乗っていてにぎやかだ。前後に竿とりがいて年老いた船頭が舵を持っていた。岸の土手に人がまばらに増えてきた。さきほど追いこしていった舟が遠くに見える。
佳代が舟のゆれに気をつけながら屋形から顔をだした。
「根岸さま、こちにおいでになりませんか」
根岸はとっさにこたえられず、
「は、はぁ~」と気のない返事をした。
「朝つみの、おいしいイチゴをいただこうと」
根岸は困った顔をした。
「そちらは少し狭いようです。それに役目がありますので」
佳代は屋形から危なげにでてきた。根岸が手を貸した。倒れ込むように根岸の横に座った。根岸の手をにぎったまま体をもたせて、
「根岸さま、じつは、お話があるのです。はかりごと・・・」といった。
根岸は黙っている。
佳代は根岸に顔を寄せながら舟方のほうをチラッとみて、
「このまま、大坂まで下りましょう。それから西へ行くか東に行くか」
根岸はぼんやりした表情を崩さずに聞いていたが、じつはかなり驚いていた。なんという偶然か、根岸も今まさに同じことを空想していたのだ。しかし、ただ、想いを楽しんでいただけで実際に行動する気はさらさらない。
佳代は根岸の耳もとに口を寄せて、
「このままでは、お公家様の、あのかたの身が危ぶまれましょう。きっと殺されるのでしょう」
根岸は黙っていた。このままでは、そうなる。それで今ごろ久兵衛が松永尺五のところで対策を講じているはずだが、そのことを佳代は知らない。
佳代が顔を根岸から離して下を向いた。手をはなした。
「それに、そうすれば、私の縁談話も、気がすすまないご縁の話もすすめなくてよくなります。このままでは、父と明日にでも先方さまにお伺いすることになるやも」
根岸は黙って聞いている。佳代は話をつづける。
「ただ、おあしの持ちあわせがなくて、途中で枚方のお屋敷によればなんとか」
そのとき根岸が、
「金子なら、今ここに二十両あります」と言った。黒田屋敷で家老から下付された二十両だった。
講習堂の奥座敷にいる久兵衛は松永尺五に対面して話がはずんでいた。
「それで、荷物は間借りする予定の町家に送られているそうですが、ここに、講習堂の宿舎に運んだらいい。運送の手配はこちらでやりましょう」
久兵衛は手にしていた抹茶を飲んで、飲み口を指でぬぐって、
「何から何まで、恐縮いたします」
久兵衛は町家に間借りして講習堂に通うつもりでいたが、それでは不便だろうと尺五が講習堂の宿舎を使うように決めてしまった。それは思いがけなくありがたいのだが、肝心な公家の女人の話を切り出せないでいた。
「先ほどの話によれば、荷物には茶道具が多いようだが久兵衛殿は茶の湯をたしなまれるのですか」
「いえ、いえ、私はまだ心得がありません。お道具は豊前の小笠原様からのお預かりものです。黒田家から預かったものもあります。尺五様へお届けするように申し付かっております」
「ほう、そうでしたか、それは楽しみですね。久兵衛殿も、こちらに居られる間に勉学だけでなく茶法を身につけられるといいですね」
「はは、ありがとうございます」
「ところで、久兵衛殿はこのたび京に来られてから、大層な難題をお抱えになったようですね」
久兵衛はうろたえた。切り出せないでいることを見透かされたようで、
「は、はい、じつはどうしていいのか途方に暮れております」
尺五は久兵衛をいたわるように、
「あらましは聞いております。木下順庵と言う者がおりましてな。順庵は私の門下ですが加賀藩主前田利常公にご贔屓になっており、数日まえに前田家の京屋敷に出向いたおりに今回の事件を聞いております。以前に柳生宗矩公に従って一時江戸に出たこともあるほどに柳生家ともつながりがあります。そちらからも事件のおおよそを聞いてきております」
「恐れ入ります。なにとぞ、よき計らいを賜りますようお願い申し上げます」
「由比正雪の起こした災難を大火事になる前に消し止めたのは幸いで、あとは残り火を注意して一つ一つ消していくだけです。案ずるには及びますまい」
「は、はぁ~~、して、いかような手立か、お教えください」
久兵衛は両手をついて尺五を見上げた。
令和三年五月二十日