孫娘が練習しているバイオリンの発表会があった。
親の方がハラハラドキドキしているようだ。
コロナでマスクをするのかと思ったが、よかった。
来月の四日は居合の昇段審査がある。みんな一段と熱が入っているようだ。
居合の帰り道、車がパンクしているのが分かった。
行きつけのガソリンスタンドで黄色いタイヤに代えてもらった。
金曜日は午前中、エッセー教室だった。
貝原益軒を書こう 二六 中村克博
茶室を退出して港にむかった。空は曇って風があった。前を歩いている宗州と佳代が同時に振り返ってはなしかけた。娘は口ごもって話をゆずった。
「空もようが変わりましたね。船に着くまでもてばいいのですが」
久兵衛が歩幅をはやめ宗州とならんで、
「風がでました。この風なら伏見まで曳舟人足にたよらず帆かけで行けますね」
「はは、そうですね、風がつづけばいいですね」
佳代は根岸に寄り添うように歩きながら、小声で、
「根岸さま、昨夜はわたくし、酔ってなどいませんよ」
根岸は左に向いて佳代を見た。
「え、いま何といわれた」
「もう一度いうのは・・・ てれくさい、出しゃばり、およね、ほんとうに」
根岸は先ほどから、その、およねのことを思いふけっていた。話をかわした訳ではないが、ふくよかな仕草というか、ふくよかな香り、というのか、いつくしみのある眼差し、ゆるす心の深さが・・・ 、そういえば乳房も大きいようだ・・・
「そうだな、およねさんは、大きいおなごだ」
「根岸さま、京についたら、佳代とお会いできますか」
「父上が何と言われるかな、このたびは、佳代殿が亰の大店の跡取りと見合いをするためにお父上は、そればかりが気がかりのようだが」
「何度かお目にかかったことがある方ですが、私は気がすすみません」
前を歩いている宗州がふり向いて声をかけた。
「雲行きが怪しくなりました。少しいそぎましょう」
港が見えてきた。空は暗かった。船は、過書船の三十石積みより一回り小さいが屋形の後ろは客室のようで板に囲まれ窓が開いていた。宗州の自前の船で家紋の船印がはためいていた。荷物を持った下男が二人、先に乗り込むと、宗州たちを迎えるように船から侍が三人下りてきた。刀は腰から外して右手に持っていた。宗州が歩きながら軽く会釈して船にあがった。久兵衛も根岸も武士たちと無言で挨拶を交わした。佳代は立ち止まって間をおいて丁寧な深いお辞儀をした。侍の一人が手を貸して佳代はしずしずと渡り板を渡った。
部屋にはいった。三畳ほどの広さでまわりに腰が下せるようになっていた。奥に宗州と佳代が座り、久兵衛と根岸は向かい合って座った。
久兵衛の右手の宗州が扇子を開いて、
「いそいで歩いたので、それに南の風が少し蒸してきましたな」
久兵衛も扇子を出してパタパタさせながら、
「雨になりそうですね、三人の武士はどこのご家中ですか」
「柳生宗冬公の柳生の里から昨夜、といっても夜明け前ですが、夜通し歩き続けて来られたようです」
船は舫いをといて岸を離れた。水夫(かこ)の掛け声が聞こえる。帆を上げて風に合わせるようだ。帆の鳴る音がして船に勢いがついた。舳先が波を切る音が聞こえる。
久兵衛が右手の刀を両足の間に持ってきて両手で支えるようにした。
「柳生から枚方までは相当な道のり、夜通し歩いて疲れも見せずに、清々しい人たちですね」
「屋敷で風呂を使い、朝餉もとられ、少し仮寝もされました。根岸さまは柳生新陰流についてはご存知ですね」
根岸は刀を右手に持って膝にそって真っ直ぐに立てていた。
「はい、ご公儀兵法指南」とだけこたえた。
「剣士は相対しただけで相手の技量が分かるそうですが、そうなのですか」
「そうですか、私にはまだ、そのようなことは」
宗州は根岸から何か聞き出そうとするように、
「剣で生きる人は、どのようにして相手をはかるのでしょうね」
「さあ、どのようにして感じるのでしょうね。あのご三方は相当な使い手ですね」
船が大きくゆれた。雨の音がして窓からしぶきがはいってきた。帆がはばたく音がしてまた大きくゆれた。「あ、痛い」と言う久兵衛の声が聞こえた。刀の柄頭に顎をのせていたのがまずかった。根岸が笑っている。
久兵衛があごを左手でさすりながら、
「あのお侍たちは鍔が小さめですね。それに刀は二尺ほど、短めだ」
宗州が感心して、
「そうですか、よく見ておられます。さすが、黒田のご家中です」
「いやぁ、私は、剣術はからっきしダメです。京へは松永尺五様の門に入って教えを請い江戸幕府の今後の方策を理解するのがつとめです」
佳代が外を気にしながら、
「この雨です。柳生のお侍さんに部屋にはいってもらいましょう」と言った。
根岸が宗州の顔を確かめて外に出て行った。横なぐりの雨が左のほほを濡らして目が開けられないほどだった。三人は船荷のかげで雨をよけていたが根岸に気づくと立ちあがった。
部屋にはいると佳代が濡れている四人に手拭いを渡した。部屋は狭かった。
三人の武士の一人が手拭いを使い終え、たたんで、
「このたびは急なおもむきで、お騒がせしました。さらに、便乗させていただき、ご迷惑をおかけいたします」
「いやいや、これも何かのご縁です。お気遣いはいりませんよ。こちらは筑前黒田様のご家中で、貝原様と根岸さまでございます」
すぐに三人の柳生武士はそれぞれが名をなのった。しばらく沈黙がつづいたが、雨の音、風の音、船頭が水夫(かこ)たちに指示を出す大声や叫び声に部屋の雰囲気が気まずくなることは無かった。
柳生の一人が口を開いた。
「黒田家といえば、根岸殿は微塵流の創始者、根岸兎角殿のご子息では・・・」
令和二年九月十七日