ブログを体験してみる

はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

先日、軍鶏(シャモ)を見た。

八木山の近所の知人宅に行った。

f:id:glucklich:20191222091722g:plain

ニジマスの燻製をもらって来た。

f:id:glucklich:20191222091734g:plain

シャモを何羽も育てていた。これは、まだ数か月の子供らしい。

f:id:glucklich:20191222091754g:plain f:id:glucklich:20191222091854g:plain

獰猛そうな立派なオスが沢山いた。

メスは地味で小さい。卵は烏骨鶏が温めるそうだ。

シャモのメスは卵を産むだけ育てないようだ。

 

金曜日、午前中はエッセイ教室だった。

       年越しまえの大掃除                 中村克博

 

 空はどんよりして風がなかった。十二月も中旬なのに生暖かい雨の降りそうな朝だった。こんな日は下水のニオイか、いや浄化槽の排水の状態が悪いのか、なんとも不快なニオイがかすかに漂う。思い起こせばニオイが気になりだしたのはもう随分前になる。半年か一年か、もっと前からかもしれない。どこからだろうと気にすれば余計に臭う。

 今週の日曜日十五日は家族集まって朝から年末の掃除をした。長男は電動式のブロアーで庭の落ち葉を面白そうに吹き飛ばしている。次男は小さな池から流れる小川の景観を鶴嘴を使って整備している。僕の弟は六角堂の掃除をしていた。

僕は庭に面した廊下のガラス戸の内側を拭いていた。使い古しのタオルを雑巾にしてゴシゴシしていると白いタオル地が黄色くなっていく。こんなに汚れていたのかと拭きながら外を見ると猫が三匹やって来た。我が家にノラ猫が居ついて二代か三代目になる。現在は黒のオスと白のメス、それとブチのメスの三匹だ。ガラス戸の前の沓脱石の上に猫の餌椀が三つ置いてある。ブチは硝子戸に前足をかけて大きく背伸びして欠伸をする。二匹は沓脱石の上で空の餌椀を覗いてニャーン、ニャーンと朝メシの催促している。猫好きではないのだが、作業を中断してエサをやることにした。硝子戸を開けるとブチは飛びのいたが二匹は餌椀のまわりをうろついて邪魔になる。プラスチックの餌椀で頭をコツンと叩いても離れない。仕方ない、こぼれないように用心してバラバラと粒状の餌を入れる。すぐに食べ始める。三匹とも丸々太っている。

 

お昼すぎて腹が減って掃除はやめにした。弟と次男はそれぞれの家庭に帰った。長男は自宅に帰らずに僕と南蔵院前のレストランに出かけた。このレストランのカツ丼は最近おいしくなった。なぜかと思ってお店のお姉さんに息子が聞いてみると、何とかいう相撲部屋が近くに出来たらしい。それで福岡場所になると若いお相撲さんがカツ丼を食べにくる、お相撲さんたちがうまそうに食べると、だんだんおいしくなったそうだ。 

食事の後、福岡の東区の方にドライブすることにした。あてもなく走る車の中では気楽にいろんな話ができる。ドライブしながらの話はいいもんだ。往復二時間ほど、いろんな話をした。しかし、あとで考えると難しい話題もあった。概念としての「家」を継承するとは、どんなことだろう・・・。できれば物の見方や考え方、価値観や倫理観があまり違わない方がいい。そのためには家族は会う機会がいる。そのための行事がいる。家族でいっしょに掃除をするのはいいもんだ。法事に御祝い事、家族で誕生日などのパーティをするのは大切だ。いっしょに時間をすごすから家族だろう。そのための場所が建物としての「家」なのか、そこを、みんなで時々大掃除する。家族でする行事はいろいろあるといい。しかし、それは規範や義務にも制度にもつながりそうだ。おそらく、このことは、イギリスのEUから離脱するブレクジットにもつながる。グローバリズムからナショナリズムへの回帰現象、国際金融資本の動きの露呈とそれへの反発などにつながりそうだ。食後のドライブで、話がいつしかあらぬ方向にいってしまった。 

 

夕方、長男が帰って、しばらくして僕が住んでいる離れのベランダに出だ。何とはなしに階下に降りた。物置の方から嫌なニオイがかすかにする。ふと、思いあたった。ベランダの床下に近づくと、臭い。ニオイの根源はベランダの床下のようだ。アルミの梯子を持ってきて床下を覗くと、こんもりした物がアチコチに連なっている。薄明りの中に見える範囲だけでも大層な量だ。いやな予感がした。これはまさしく猫のウンコだ。それが愕然とするほど堆積している。どうしようと思った。今日はもう暗くなる。明日は朝から掃除しなければ、これは大仕事になると思った。

猫のウンコが気になって布団に入っても寝付けない。どうやって片付けようか。床の高さは低くて五、六十センチほどしかない。幅は三、四メーターほど、長さは十メートルほどある。臭い。屈んでは入れない。スコップだけではすくえない。かき板がいる。それも柄の長いのがいる。バケツがいるだろう。梯子に上って、かき板でスコップに集めて、どうやってバケツに入れよう。ウンコを片付けたあとに消毒しなければ、クレゾール液がどれくらいいるだろう。その前に水で洗わないといけないが、どうやって低い床下を・・・。洗い終わって、消毒して、そうだ、二度とは入れないように網を張らなければいけない。臭いし、古くなったウンコは粉になって舞うかもしれない、マスクがいるようだ。そんなこと考えていたら興奮していつまでも目が冴えて眠れないでいた。

 

目がさめると窓が明るくなっていた。どうも、猫のウンコとの想定戦をしながら、いつの間にか眠っていたようだ。食事をしてホームセンターに必要な道具を買いに行った。買い物はすぐに終わった。ホームセンターでいろんなものを見て歩くのは楽しい。木工機械の売り場を歩いていると、以前から欲しかった電動糸鋸盤が展示処分で四割引になっていた。妻の了解を得る時間はない。レジに下げていった。

家に帰って、さっそくウンコ掃除をはじめた。床下を覗くと朝日が入っていた。猫のウンコは古いのから、まだ生々しいのまで、気が遠くなるほど見える。臭い。居ついたノラ猫が何代にもため込んだウンコの山だ。近くにあるウンコはスコップの柄が長くてすくえないので、まず、かき板で遠くに押し出す。かき板の柄の先がウンコに触れてしまった。半分以上は数年前のもので土のようになっている。こんどは、奥のウンコを、かき板で引き寄せる。肘が床に触れてジャンバーが汚れた。ウンコに砂がまじっている。猫は砂も食べるのだろうか、湿気のある場所のウンコはアンモニアの匂いがする。目まいがしそうだ。作業していると息が苦しくなるしメガネが曇って見えない。マスクをはずした。ニオイが鼻に直接はいって来た。涙が出たが手ではぬぐえない。しばらくすると臭い匂いに慣れてきた。スコップを注意して持って梯子を下りた。それでも猫のウンコの乾いたのがパラパラとズボンや靴に落ちてきた。バケツは使わなかった。一回一回スコップの荷物を運んで捨てる運動が無限に思えた。掃除が終わったのはお昼も食べずに夕方になっていた。作業服をそのまま洗濯機に入れる訳にはいかない。プラスチック水槽で洗っていると、なんだか、罰が当たることでもしたのだろうかと思った。きっとそうなんだろうと思う。

令和元年十二月十九日