福岡県立博物館に出かけた。刀剣展があっていたが目的は別にあった。
柳生新影流柳心会の友人が博物館と掛け合って特別に見せてもらった。
立ち入り厳重な収蔵庫の奥まった部屋に用意してあった。
この場所は博物館の職員以外は入ることが出来ないそうだ。
黒田藩に伝わる柳生新影流に関する未整理の資料が沢山収蔵してある。
必要な時に特別な閲覧が許されるようだ。
もう一人の友人は黒田藩伝柳生新影流の免許皆伝を正統に授与されている。
僕は写真記録の係として入室した。
説明を受けたのだが、今では覚えていない。免許状のようだ。
文政三年とあるので、徳川十一代将軍家斉治下の文化・文政年間(1804~1830)を中心とした時代。幕藩体制の動揺期に当たるが、表面的には平穏な状態が続いた。幕政の綱紀が緩み、江戸を中心に太平の享楽的風潮がみなぎり、町人文化が栄えた。と Webに書いてあった。
何と書いてあるのか、わからん。
新影流の技の説明が絵で描いてある。僕はまだ習っていない奥の方の技らしい。
大濠の道場で上級者が稽古しているのを見るが、斬る位置が大切なようだ。
手首を切り落とす技が多いのだろうか、長ばかまをはいているのはなぜだろう。
こんな絵が何メータもたくさん書いてあった。
口伝多しと読めるので文字では伝えられないのだろう。
新影流の継承が代々続いていることが書いてある。
このころの名前は黒田藩に伝わった人のようだ。
この流れが現在の黒田藩伝を継承する第十四代長岡鎮廣宗家につながっている。
伝統文化は正統に途切れることなく、つながることに重要な意味があるのだと思う。
いろんな巻物があったが、天狗が描いてあるものがあった。
同じような天狗の巻物を、長岡宗家が開示してあるのを見たことがある。
どうして山伏姿の天狗なのだろう。
源義経が幼少のころ鞍馬山で剣術を習ったのもカラス天狗だった。
平安末期と江戸時代とでは刀を抜く方法がちがう。
太刀を佩く(腰に足緒で吊る)と打ち刀を帯にさす、との違いがある。
天狗の顔をした山伏にどんな謎があるのだろう。とおもう。
そうか、思い当たることがある。これは調べてみるとおもしろそうだ。
博物館の図書コーナーに僕の書いた「アテナの銀貨」が置いてあった。
友人たちは改めて一冊づつ買って行った。ありがたいことだ。