木こりさんたちが庭の木の伐採作業が終わって、
あと片付けの合間にチェーンソーをを使って 椅子を作っていた。
プレゼントしてくれた。おもしろい記念品ができた。
午前中はエッセイ教室に行った。
貝原益軒を書こう 中村克博
二人は船室に下りて来た。大部屋の所定の場所に夜具の用意はしてあるが、まだ就寝には早い。船行灯が数か所ともしてあって歩く人の大きな影がいくつも動き、あちこちから静かな話し声が聞こえていた。風の音も波の音もしないが部屋の空気がよどんでいないのは換気に工夫があるのだろう。
腰をおろした根岸が、
「いま、どのあたりだろうな」
「岡山の国境をすぎるころでしょうか」
「吉備津宮に行けなかったな、きび団子が食えなかったのは残念だ」
「池田光政公への拝謁は叶わないでしょうが岡山のお城には行ってみたかったですね」
根岸は大刀を腰から外して、下げ緒を鞘に結びながら、
「光政公はご領地も領民も徳川家から預かっておるとのお考えだそうだな」
久兵衛も下げ緒を結びながら、
「国主となりては一国の人民は上よりお預けなされおかるるなり、といわれております」
根岸は刀に軽く一礼して右膝もとに置いた。
久兵衛はそれには応えず、
「信長公は配下の武将の力量におうじて領地を預けるお考えで国替えはたびたびなされました。しかし、国家の統治権を天から天皇を介してお預かりする考えが、どうだったのか・・・ ところが太閤殿下は関白に任官することで武家に朝廷からの官位制をしめして国土を天皇にお返しすることで、全国の統一をはかられました」
根岸は声を一段とおさえて、
「で、あればだ、徳川家が関白殿下の豊臣家を滅ぼしては幕府の成り立つ根拠が危ういのではないか」
「そうだとおもいます。朝廷の関白家を葬ったのですから、朝廷との関係改善は困難です。二代将軍の秀忠公は公武融和が最重要課題になります」
「それで、徳川家はどのような手を打ったのだ」
「元和六年の秀忠公のご息女和子様が後水尾天皇に入内したのち、二条城へのご行幸をはかります。そのための実務を小堀政一公が務めます」
「そうか、徳川家茶道頭の小堀遠州公のことだな、藤堂高虎公の娘婿でもあるが、やはり、茶席を介しての人のつながりが重要になるな」
「一説には遠州公は行幸前後の忙しい時期に述べ九十三人の客をまねいて二十四回もの茶会を催したそうです」
「そうか、徳川幕府の礎は小堀遠州のお茶が大きな役割をはたしたのか」
「高虎公、遠州公の親子が二条城行幸を介して徳川幕府と朝廷の人脈を見事に橋渡したといえますね」
「大御所秀忠公が太政大臣に、将軍の家光公が左大臣に任官したのはこの出来事によってか、そうだったのか」
いつの間にか、大部屋のざわめきは無くなっていた。行燈の数も減らされて、人の動きもなく波の音が静かに聞こえていた。船は月明かりの海をおだやかに進んでいるようだ。根岸は寝る前に小用を思い立って船尾の厠に出かけて行った。
久兵衛は寝転んで両手を組んで枕にしていた。行燈の薄明りで天井の板目は見えないが、頭が冴えて今までの根岸との話が続いているようだった。次から次にいろんな思いが目の前に浮かんでくる。
小堀遠州公は大坂城が将来は御居城になると言っていたそうだ。であれば大御所と将軍は大坂城に住むことになる。大阪夏の陣の後、幕府上層部では大坂幕府構想が唱えられていたというが、今でもこの考えは命脈を保っているのだろうか、池田光政公などそのお考えだろう。
もしそうなれば、政権と軍事を担う徳川家と国権の根拠としての朝廷と経済を発展させる商業とが一体となるのだろうか・・・ 西国の外様大名への圧力も段違いに強化されるだろう。
ところが、どうもそうはならないようだ。家光公は権現様二十一年忌のため日光東照宮の建物をすべて作り替えた。これには、延べ人数にして大工ら百六十九万人、箔押し二万三千人、日用二百八十三万人などが投入される。総工費は金五十六万八千両、銀百貫目、米千石にのぼった。公武合体構想から、東照神君を祭神とする武家国家構想へ転換したとみるべきだろう。
寛永十七年、長崎で幕府はポルトガル使節団の全員を処刑した。島原の乱のあとポルトガル船の来航を禁じるが、ポルトガル使節がしつこく来航して貿易の再開を求めるので長崎に停泊していた船舶を焼き払い、ポルトガル使節四人と同行者、乗組員五十七人を斬首した。彼らは我が国の銀、清や南方の絹や香料を求めているだけでなく領土も住民も狙っている。これからは国内の安定だけではない、海防体制の整備も重要な政治課題になるのだろう。
根岸が帰って来た。
「気持ちのいい夜だ、明日はいよいよ大坂に着くのだな」
令和元年十月十七日