暑い日の夕方、日が落ちて風が涼しくなるころ。
次男の嫁の実家に歩いて行くと、めずらしいピザ釜が用意してあった。
木質ペレットを燃やして500度までの火力が得られるらしい。
釜の温度が適当になるとピザを入れて、あとは待つだけ、
スモーキーな匂いは暖炉の熾火で作るのとも違う不思議なおいしさだった。
ピザ以外に、いろんなオーブン料理がつづいて、夜が更けるのが速かった。
先週の金曜日はエッセイ教室だった。
濡れ場の書き方に苦労して何度も何度も書き直してやっと書いたけど、
教室で朗読を終わって感想を述べるとき、その場面には誰も触れなかった。
貝原益軒を書こう 九 中村克博
小笠原藩の関船から大方の武士たちが降りて終日つづいていた雨も止んでいた。ゆっくり流れる薄雲に月がときおり隠れる鞆の浦だった。船に残った久兵衛は夕餉を終え場所を変えて小笠原藩の近習たちと車座になっていた。
航海中の夕餉は素朴だが、この日は鞆の浦に停泊しているためか天婦羅に新鮮な刺身もついていた。清水に魚や野菜、それに地酒は藩指定の宿からの差し入れだ。関船には艪の漕ぎ手だけでも四十人は乗っている。それに帆走の作業につく水主たち、警固の武士たちを含めるとかなりの人が船に残留している。交代でとる食事のあいだ船内はざわついて人を呼ぶ声や物をとり落とす音などが聞こえていたが今は静かになって船べりを打つ波の音がかすかに響いていた。
近習の一人が久兵衛に大きな徳利から両手で酒を注ぎながら、
「先ほどの天婦羅はうまかったですね。瀬戸内の魚は初めてでした」
「長崎、福岡、小倉、福山と土地が変われば魚の種類も変わりますね」
近習の侍は五人乗っていたが一人は頭の毛が薄い壮年で、
「我らは、上さま直々のお品を江戸藩邸に届ける役目があって、大坂に着くまで船を下りることは叶いませんが貝原殿は鞆の浦を見られてはどうですか」
「はい、私もそうしたいのはやまやまなのですが、何分にも上さまの怒りに触れ、浪人の身になっておりますので、はばかられます」
頭の毛が薄い壮年の近習は久兵衛の応えに釈然としないのだが、他家の事情なので深いかかわりを避けて黙った。
別の近習が、
「そうですか、しかし我らにとっては貝原様の話が聞けて好都合です」
壮年の近習が、茶碗の酒をがぶりと飲んで、
「我らが江戸までお届けするお品は小倉から積み込んだ他に、ここ鞆の浦で奄美からの黒糖を積むことになっております。その品がまだ鞆の浦に届いておらんのです」
久兵衛は茶碗に注がれた酒をすすり、
「そうですか、黒糖なら大坂でも整えられるでしょうに・・・」
「いや、江戸の藩邸で使う特別な黒糖、というより、黒糖を使った羊羹です」
「甘葛でなく黒糖を使う羊羹ですか、私はどちらも食べたことがありません」
壮年の近習がもう一口飲んで、
「私もありません。江戸で徳川家やほかの大名家への贈答品に使います」
「奄美大島は琉球王国に属していたのですが、薩摩藩が琉球を支配してから奄美の黒糖を専売として藩で最大の収入源になるのですね」
壮年の近習は大徳利から酒を注がれながら、
「それで、このたび薩摩から運ばれる船には薩摩の武士が大勢乗っております」
大徳利から酒を注いだ若い近習が、
「ところが、その船から抜け荷がおきて、弓削島で大風を避けている折に・・・」
久兵衛が驚いたように壮年の近習に目をやった。
近習は酒を流し込むように飲んで、大徳利の者を見ながら、
「さよう、薩摩が琉球から仕立てたジャンク船なので乗組員はほとんど琉球人で奄美からも黒糖の生産者も乗っておったのです。嵐の夜に警固の薩摩武士の目を盗んで、かなりの量の黒糖を艀に移し替えて弓削島に降ろしたのです」
久兵衛は酒の茶碗を両手に持ったままで、
「その知らせはいつ知ったのですか、それで下手人はどうなったのですか」
「わしらの船が伊予松山領の大三島で嵐を避けていた折に船番所からの知らせがありました。大三島へは弓削島から小早船が嵐の中まいったようです」
久兵衛は聞きながら茶碗の酒をゴクンと飲んで、
「伊予松山の松平定行公は権現様とは伯父甥であらせられ、またご正室は薩摩藩初代の島津忠恒公の養女、島津朝久様のご息女であります。さらには、弓削島は今治藩に属しまして藩主は松平定房公、松平定行公の弟君になります」
先ほどから話を黙って聞いていた年若い近習がポツリと、
「と言うことは、薩摩の抜け荷が今治藩の弓削島であった。それを兄である松山藩に知らせてきた。松山藩と薩摩藩は親戚関係なのですね」
壮年の近習が酒が回りおぼつかない口調で、
「ややこしいことは、もういい。ようするにだ。黒糖の抜け荷など大した問題ではないのだ。それよりもジャンク船には明国の品も、南方の品も長崎を通さないご禁制の交易品がたんと積んである。それをとがめられると・・・、わしらの船に積み替えて江戸まで警固するのは黒糖羊羹だけではない」
もう一人、ぽっちゃり顔をした近習が、
「黒糖だけなら薩摩藩での抜け荷、ですが、ご禁制の交易品の抜け荷となれば幕府との問題になりませんか、我らが切腹しても間に合いません」
久兵衛は茶碗の酒をゴクンと飲んで、
「それで、下手人はどうなったのですか」
「盗まれた黒糖は回収して奄美の者たちはあらかた召し取ったが首謀者は逃げたようで、薩摩の武士が目ぼしい島に手分けして追及しておるらしい」
さらに話を続け壮年の近習はろれつが回らないがおおむね次のような話をした。
薩摩は石高七十万石ほどと言われるが実際はその半分もない。土地が火山灰で水が抜け米はできない。そのため武士にも芋栽培を奨励して芋ばかり食べている。薩摩は琉球を支配して奄美の黒糖が有力な財源になり藩の専売とした。奄美では懸命に黒糖を作るが人は舐めただけでも罰せられる。奄美は芋すら食えないで蘇鉄まで食べている。
そして無体なことに幕府は外国との交易を長崎に限って独占したので薩摩は琉球を介しての外国交易まで禁止され、ますます藩の財政は困窮するばかりだ。ところが、今より十年ほど前の寛永十八年に薩摩藩は長野村で有望な金鉱脈を発見した。佐渡の金山より産出量が多く、藩の重要な資金源になった。これで救われると安堵したが産金量の多さに驚いた幕府が薩摩藩の強大化を警戒して採掘開始から一年たらずで一方的に採掘中止を命じた。こうなっては薩摩が密貿易に活路を見つけるのは死活のことになる。
そのころ、根岸は一人で遊郭が軒を争う有磯町から少し離れた揚屋の狭い部屋で年増の遊女と交接していた。行燈の小さな障子を開いて火皿が見え部屋は明るかった。年増と言っても根岸とは同じ年頃で三十路には届かない。女は仰向けで両足を上げ膝をたたんでいる。根岸は上に乗らずに女の折り曲げた膝をつかんで開いている。根岸は眼差しを上げて女の顔を見た。火皿の炎がゆれている。ゆっくりと深く、そして浅く、女の表情を確かめながら律動をつづけた。女の吐く息が途切れ途切れに聞こえた。柔らかいほっそりした指が根岸の手に重なってきた。根岸はやさしく指をからめ少し腰を落とした。
令和元年八月八日