ブログを体験してみる

はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

雪に閉ざされている。

今朝の雪は凄まじく吹き荒れ、一時は景色が見えないほどだった。
サラサラした乾いた雪で溶けそうにない。

短時間にみるみる積った。外に停めていた妻の車は雪ダルマだった。

今月の一日に宮崎の鵜戸神宮で居合の奉納があった。
そのときの写真は、道場の運営部に提出しているので戻ったら掲載する。

奉納したあくる日の二日はエッセイ教室だった。原稿は1枚だけになった。


思い出せない                   中村克博


 ほんの先ほどトイレに起きるときに壁の時計をのぞいたのだが、それが何時だったか思い出せない。フットライトの薄明りでボーっと見たのだが何時だったか記憶がない。それで枕元の懐中電灯を取り出して壁の時計を一瞬照らしたのだが、五時少し前だった。起きるには早い。もう少し眠ることにした。ところがたった今懐中電灯でパット照らした記憶が、つぶった目の奥に時計の映像が数字も針もはっきり見えるのが不思議だった。
なぜだろうと思った。たぶん初めに見たのは数字の記憶なのだろう。次に見たのは映像の記憶なのだろう。どう違うのだろう・・・。映像は原始的な機能だろう。犬や猫や鳥と同じだ。数字は新しい機能なんだ。人間が発明したのだ・・・。
いや、そうだろうか、犬も多いとか少ないは分かるようだし・・・。人間も多いとか少ないまでにしとけばよかった。三つ以上数が分かるようになって争いが増えたのかもしれない。
人類は数字を考え出して、それから時間というものを思いついたのだろうか。これから、とか、これまで。のぞみ、とか、おもいで。未来と過去、希望と後悔。予算と結果、評価と達成・・・。とうとう目がさめた。懐中電灯をつけた。五時半だった。
ひょっとして、たいへんな物理の先生も夜明け前トイレに起きて寝ぼけた頭で時間と空間のことを思いついたのかも知れない。人類にとって迷惑計り知れない夜明けのトイレだ。

今日はエッセイ教室があるが提出する原稿は書けていない。そうだこの様子を、目がさめたベットでもうろうとする様子を書いてみようと思った。
昨日の夜はくたくたに疲れていた。妻から追い立てられるように寝室に入ったのは一〇時前だった。明日のエッセイには提出原稿なしで参加しようと決めていた。昨日は宮崎から高速道路を飛ばして家に帰り着いたのは日が落ちて暗くなるころだった。この日の朝に鵜戸神宮で居合の奉納に参加したのだが、前日は民宿に泊まった。九時すぎの遅い夕食に宗家の前に座って、食後の焼酎を飲み過ぎた。僕は日ごろ酒を飲まないのに宗家が大きなコップに氷を入れて鵜戸神宮差し入れの一升瓶からドクドクと注いだ。ところが飲んだ焼酎がうまくて二杯も飲んだ。頭がもうろうとして気分がよくなった。ろれつが回らない経験をはじめてした。おもしろいと思った。何をしゃべったのか覚えていない。右となりに清水師範がいた。ちらりと見ると、むっつり口をむすんでいた。左にいる人に、僕は何か良くないことをしゃべってはいないかと、こっそり聞いた。
「だいじょうぶです。おもしろい話です。もっと話してください」
と言って、若者らしい屈託のない笑顔でそっと言った。
安心して調子乗って、どんどんしゃべったようだ。
何を言ったか思い出せない。
平成三十年二月二日